”行き先”〜3〜

 

 足音が止まる。男の人はすぐ傍まで来たらしい。イチは、まだ顔を上げられなかった。

「お前ら、もう今日はいい。戻ってな」

 後ろに控えた訓練生達を帰すと、サダメとヤゴロウも、キハチと共に寮の方へ行ったら

しい。

「おい、顔上げろ……聞こえねえのか、上げろ!」

 怖い声だった。震えながらその人を見上げようとして、目の前が真っ黒に染まった。

 顔を蹴り上げられたのだ。それが分かる頃、あおむけに倒れたイチの胸に、その人の足

が乗っていた。

「見れば見るほど、似てやがるな。胸糞悪い」

 続いて、振り上げたつま先が脇腹にめり込んだ。一番、苦痛の大きい蹴り方を選んだら

しい。

 うつ伏せに倒れて、顔を地面で擦ったイチは、立ち上がろうと両手をついたが、男の人

は足で頭を抑えてきたらしい。唇と歯が地面にぶつかり、血と砂利の味が広がっていく。

「いいか、クソガキ。お前の親父が俺にしたことは、こんな比じゃねえぞ。それどころか

 な、お前の痛みの何倍も背負わされて、彼岸へ行ったアシハラの英霊は、百人を超えて

 るんだ」

 謝る言葉が口を付いたが、砂と唇が、声になるのを妨げる。顔の傷の上を、石がうごめ

いている。

 突然、頭の重みが消えた。かと思うと、髪の毛が乱暴に掴まれた。額からつむじまでを

引きむしられるような痛みと共に、イチは上半身を引きずり上げられた。

 頭が握りつぶされそうだ。顔の痛みも忘れるような、物凄い力がかかっている。その人

の顔が、こちらを覗き込んだ。

「お前は、フユキの息子だ。青面頬の息子だ。アシハラとユイは、絶対にお前を許さん。

 お前なんぞに、ユイの仕事は任せんぞ」

 小さい目が血走り、唇が歪んでのぞいた犬歯が、いやに鋭い。お酒を飲んだように、顔

全体が真っ赤に染まっている。本の挿絵にあった、地獄の鬼を連想させる。結晶に出会っ

たときの恐怖ではない。けれど、確かに恐ろしくて悲しいものが、イチを満たしていた。

これが、人から憎まれるということなのだ。

 鈍い音は、目の上が殴られたときに聞こえたらしい。続いて頬、口、鼻、首、耳。髪の

毛を掴まれたまま、イチは次々に拳を受けた。

 やがて、鼻血と涙が流れる感触が無くなり、音が聞こえなくなってきたところで、イチ

は地面に放り出された。

「殺されないだけ、ありがたいと思え」

 そう言って、その人は唾を吐きかけたらしかった。イチには、自分の顔がどうなってい

るのか、よく分からなかった。

 

 顔中燃え上がる様な激しい痛みが、イチの目を覚まさせた。精一杯目を開くと、腫れた

まぶたが上がると共に、辛うじて薄目が開き、天上板が見えた。体は、布団に包まれてい

る。

 両耳とも、少し分かりにくいが、聞こえているらしい。その証拠に、子犬が吠えかかる

ような声がする。

「どう転んだら、こんなになるっていうんですか! ふざけないでください」

 どうにか顔を傾けると、背が低く、長い黒髪をした人が目に入る。線は細く、声も高い

みたいだから、多分女の人だろう。

 詰め寄られているのは、穏やかそうな顔をした男の人だ。見た所、カナメと同じくらい

若く、腰には二本の剣を差している。それでいて、カナメと対象的な、真っ青な髪をして

いるから、多分スコルツァの人なのだろう。

 周囲の様子も分かってきた。ここは、少し変わった木造の建物らしい。床は板張りで、

畳がない。窓は、勉め小屋と同じで、硝子を使っているみたいだ。その上からは布が釣っ

てあり、イチが寝ている床も、木で組んだ台の様なものの上に整えてあった。

「大体、ゴロウザさんが来てから、おかしいんですよ。転んだ転んだって、どう見たって

 殴られたり蹴られたりした訓練生が、つぎつぎ担ぎ込まれてきて」

「そうは言うけど、今回だけは、ゴロウザさんにも」

「この子が、青面頬の子だからっていうんでしょう。手を切り取られて、友達を殺された

 からって。でも、過去のことを、子供にまで負わせるなんて……あら」

 振り返った女の人と、イチの目があった。その人は、ちょっと驚いたみたいで、少しの

間、ぽかんとしていた。

 丸顔にちょこんと乗った唇、それに、小さく突き出した鼻と、目が少し垂れ気味だ。迫

力が無く思えるけど、見ていると気持ちが和らぐ。

「目を覚ましたの。怖かったわね、痛い所ないかしら」

「顔以外は、大丈夫です」

 それだけ、口にした。頬や唇の裏が何か所か切れていて、話しにくい。

 女の人はイチの傍にやってくると、白い上着の袖をまくりあげ、包帯の上から顔や頭を

なでた。不思議と、その部分の痛みがやわらぐようだった。

「……こぶ、少し小さくなったわね。気分が悪いとか、無いかしら」

「特に、ありません。あの、あなたは」

 イチに尋ねられて、女の人は手を離した。姿勢を正すさまは、勉め小屋で縮こまって礼

をする、女の子たちみたいだった。働いているみたいだから、ミツよりも年上だろうに。

「オク訓練所、看護診療役のシマといいます。ハンドヒーラーの見習いでもあるの。しば

 らくよろしくね」

「僕は、ヒカミ村から参りました、イチです」

 どうにか体を起こしたが、顔が痛くて、微笑みは作りにくい。元々怖い顔は、さらにぎ

こちなくなっているのだろうか。それでも、シマは笑顔で返してくれた。

「礼儀正しいわね。そこの人は、ツガルさん。スコルツァの兵隊崩れです」

「そんな言い方ないと思うけどなあ。カナメが言ってたのは、君だね」

 苦笑するツガル。なるほど、イチにも、カナメが可愛いなんて言ったのが、分かる気が

した。村でも、こんな男の人は見たことがない。

 まず、体つきだ。男性としてというより、女性として見ても小柄かも知れない。カナメ

よりも確実に背が低い。シマより少し大きいくらいだろうか。それに顔つき。目元がくり

くりして、なんだか優しい。太くも、細くもない眉毛がふわりと乗っかって、口元や鼻と

合わせると、ちょっと犬を連想させる。

 瑞々しい青い髪の毛が加わると、神秘的で、ちょっとこの世の人とは思えない可憐さが

ある。とても、スコルツァで死ぬほどの訓練を受けた人には思えない。

 ツガルはイチの顔をしげしげと見て、痛そうに顔をしかめた。

「それにしても、酷くやられたんだね。怖かったろう、本当にごめんよ」

 そう言われると、改めてさっきのことが蘇ってきた。両腕で、自分を抱きしめるように

して、イチはうつむいた。

「……いいえ、やっぱり、僕はフユキの子供だから」

 涙が落ちる。青面頬の迷い鬼となったフユキが、あの男の人の手を切り飛ばし、キハチ

の足に斬りつけて、次々と人の首をはねていく様が頭を巡った。裏切りは、どんな理由が

あっても、許されないことなのだ。

 込み上げるのは、悪いことをしたという、ただそれだけの意識だった。味方を裏切り、

百を超える人間をフユキは殺した。その息子というだけで、アシハラで能い手にかかわる

ことは、やはり無理なのだ。

 二人とも、イチに声をかけなかった。それは、多分、こうなるのが当然だということな

のだろう。ヒカミ村では、誰も気に留めなくても、アシハラの国全体で考えると、イチは

居てはいけない人間なのだ。

「イチ!」

 両肩に手を置かれ、考えが断たれる。ツガルの顔が目の前にあった。

「いいかい。他の誰がなんて言おうと、君の父上がやったことは、間違いなんかじゃない

 と僕は思う」

 ツガルの手は、顔に似合わず、皮が張ってごついものだった。やはり、長く剣を振るっ

ているのだろう。間近に迫った、祈るような顔つきに、イチは目を見張った。

「今、ここじゃあ詳しく言えない。けど、ここじゃなかったら、いくらでも話せる。カラ

 ンの戦争だけは、アシハラの能い手が鬼と呼ばれても、仕方がないものだったんだ。ゴ

 ロウザもだけど、君の父上にやられた奴らなんて、みんな」

「ツガルさん、それ以上言うと」

 シマにたしなめられ、ツガルは言葉を切った。しばらく黙り込んで、噛みしめる様につ

ぶやく。

「……誓い文の、ことがあるな」

 本で読んだことがある。誓い文というのは、たいへん厳しい能い手の掟だ。破ったら、

能い手として活動できないばかりか、仇としてユイから狙われることもある。ツガルが言

うには、イチを殴ったゴロウザや、足の不自由なキハチも、どうやら戦争の時に何かして

いたみたいだけれど。それを言うことが、誓い文を破るのだろう。

「とにかく。イチ君、無理かもしれないけど、気にしちゃいけないよ。ゴロウザは勝手に

 怒ったけど、ユイの方では、別に君を裁くことなんてできない。怪我さえ治れば、この

 まま仕事を習えるんだよ。僕はそれを伝えに来たんだ」

 そういえば、ここにはそういう理由で来たのだった。ひどい目には遭ったけれど、ハル

キや村の人達は、ユイの方でイチを追い返すことができないのを知っていたのだろう。ゴ

ロウザのような人が居ることも、もしかしたら分かっていなかったのかも知れない。

 それでも。こんな目に遭うのなら、ここまで深く自分を憎む人が居るのなら。もう、働

くことは難しいと思う。

 目をそらして黙り込んだイチに、ツガルの方は困り顔だ。

「弱ったなあ……分かるけど、あんな目に遭っちゃったら、しょうがないのかなあ。君や

 君の母さんみたいな人、絶対に必要だと思うんだけど……」

 そう言われても、イチは不安になるばかりだった。思い出すのは、ゴロウザの蹴りの痛

み、のろいを込めた低い声。それに、正直な話、あの課題といい、本当についていけるか

どうかも、自信がない。

 うつむいて、唇を噛む。今までのこと、全部がひっくり返ってしまったみたいだ。どう

したらいいのか、分からない。

 また、泣き出しそうになったところで、シマが言った。

「もういいじゃない、ツガル。今はそんなに難しいこと、考えさせちゃだめよ」

 シマはイチの額に手を置くと、そっと言い聞かせた。

「イチ君、とにかく今はゆっくり休みなさい。君の母さんほどじゃないけど、私も頑張る

 から、怪我のことは心配しないで」

「でも、僕はどうしたら……」

「考えるにしても、体が治ってからよ。眠りなさい、怖いことなんか、何もないわ」

 そう言って、シマが傷をなでる度、痛みが和らいでいく。その手は、薄桃色に光ってい

るようにも見える。そういえば、シマは母さんを、ハルキを知っているのだろうか。

 温かく、心地よく、意識がとろけるような感覚が、だんだん体を満たしていき、イチは

そのまま目を閉じた。

 

 再び目を覚ましたとき、部屋には誰もいなかった。窓の布は閉じてあり、柱に据え付け

られた魔石の照明器具が、橙色の明かりを降らせている。

 イチは体を起こし、顔にそっと触ってみた。腫れが引いているらしく、頬や鼻も、ぶよ

ぶよではなくなっていた。そういえば、耳には、魔石が燃える音さえ聞こえる。目だって

開くときまったく痛くなかった。

 布団をのけ、台の上に腰掛けてみる。足元には、イチの履き物が揃えてあった。それを

履いて、傍の机まで歩くと、手鏡があったので、覗きこんでみた。

 ほとんど、普段の自分の顔だった。殴られて腫れあがっていた目の上や鼻なども、小さ

い青あざくらいにしか、なっていない。口の中にも、傷はほとんど無いらしかった。

 ここには居ないけど、シマはしっかり癒してくれたらしい。自分では見習いと言ってい

たけれど、やっぱりハンドヒーラーの力は大したものだ。

 感心しながら鏡を眺めていると、部屋の入口で小さい音がした。思わず振り向くと、木

戸がそろそろと開いて、隙間から用心深い声がする。

「すいません、どなたか、いらっしゃいますか」

「はい」

 返事をすると、戸の動きが止まった。子供の声だけど、一体誰だろう。シマやツガルで

はないみたいだけど。

「あの、どなたですか。どうか、したんですか」

 少しだけ間を置いて、答えの代わりに、木戸が勢いよく開いた。

「イチ!」

「大丈夫だったんだ!」

 入ってきたのは、サダメとヤゴロウだった。二人とも嬉しそうにこっちへやってくる。

心配してくれたのだろうか。けれど、イチの方は言葉に詰まった。

 今は二人に会いたくない。青面頬の息子として、アシハラの裏切り者の息子として、ど

う接していいかが、分からない。

 戸惑うイチを知ってか知らずか、サダメ達は本当に喜んでいるようだ。

「大したことなかったんだなあ、怪我」

「いや。今は居ないけど、シマって人が治してくれて」

 どうして、二人は来たのだろう。やっぱり理由が分からない、こんなに優しくされる理

由が、ないはずなのに。

「本当に良かったよ、俺ちょっとだけ見たけど、あのゴロウザって人、まるで鬼みたいに

 イチのことを殴ってたから」

 ヤゴロウも、まるで何もなかったかのように、背中を叩いてくる。二人の調子に合わせ

た方がいいと思いながら、イチはついつい、口を滑らした。

「……どうして、来たの」

 その一言で、三人とも、止まってしまった。イチはそれ以上何も言えずに、ただ二人の

ことを見つめていた。また、涙が出そうだった。

 やっぱりそうだ。サダメもヤゴロウも、イチのことを気にしていないわけじゃない。裏

切り者の息子だということに、目をつぶってくれていただけだ。イチの一言で、二人はそ

れを思い出したらしい。

しばらく、三人とも口をきかなかったけれど、サダメが、ぽつりと言った。

「だってよ」

目が赤い。まぶたの先には、涙がにじんでいる。握った拳と声が、震えていた。

「心配じゃねえか、あんな酷いことされて。怪我させられたとかいったって、いくら、青

 面頬の息子だって、酷すぎるぜ、あいつ」

 目上の、憧れていた能い手の、皆伝であるゴロウザを、サダメはあいつと呼んだ。ヤゴ

ロウも続く。

「そうだよ。イチは、何も悪い事してないじゃないか。今日会ったばっかりだけど、悪い

 ことするようなやつにも、思えない。なのに、あんなに、殴ることはないんだ」

 涙は浮かべていなかったけれど。瞳の震えが、イチへの心配を物語っていた。

 今度は嬉しくて泣き出しそうだった。二人とも、イチ自身を見ている。今朝出会って、

一緒に一日を過ごして知った、イチのことから、判断してくれている。

言葉が出ないイチの手を、二人がきつく握りしめた。

「サダメ、ヤゴロウ。僕……」

「イチ、大丈夫だよ。僕も、サダメも、イチのことは、べつに怖いとか嫌だって、思って

 なんかないんだ」

「俺に、気を遣ってくれるくらいだしな。ほら、俺達よりでかい図体して、そんなに泣く

 もんじゃないぜ」

 サダメに笑われても、こぼれる涙が止められない。弁解しようにも、泣き声しか出てこ

ない。ゴロウザに、痛みと怖さで植え付けられたものが、傷と一緒に消えていくようだ。

この二人が居てくれるなら、ここに居ても、いいと思える。

 情けないとか思う間もなく、後から後から涙が出てくる。ひとしきり泣いて、ようやく

落ち着いた頃、サダメがつぶやいた。

「しかし、納得いかねえな。なんでイチみたいな、優しいやつの親父が、裏切り者で、あ

 のゴロウザが、皆伝になってるんだ」

「あの後キハチさん、イチのお父さんの本当の通り名は、“緋太刀”だって言ってたね」

「そういやあ、ゴロウザの言うところじゃあ、あの人もイチのお父さんに足を斬られたみ

 たいだけど、全然、恨んでないみたいだったな」

「本当なの」

 意外だった。フユキの裏切りで、直接斬られた人は、みんな恨んでいるはずだろうに。

「僕たちに、ここを教えてくれたのも、あの人だったんだ」

「そういや、お前の分の資料も、渡してくれたな。忘れてたよ」

 サダメは傍に置いていた袋から、帳面と資料を出した。受け取ってみると、確かにゴロ

ウザに痛めつけられたとき、置いてきたものだった。

 ゴロウザの話からすると、キハチもイチが来ることを知っていたはずだ。ゴロウザ自身

は知らなかったみたいだから、隠してくれていたのだろうか。それが、良かったか悪かっ

たかはともかく。

「分からないなあ。おんなじイチのお父さんに斬られたキハチさんが、イチのこと心配し

 てるのに」

「ゴロウザの奴は、イチのことを毛虫みたいに憎んでるってことになるよな」

 ヤゴロウもサダメも、キハチのことが分からない様だった。それはイチも同じだ。二人

より、フユキのことを詳しく聞いたイチでもだ。戦争で、何があったのだろうか。

「なあイチ、もし平気だったら、お前のお父さんのこと、俺達にも話してくれないか」

「そうだね。取り引きってわけじゃないけど、話してくれるなら、イチには僕達の村のこ

 とも、話すよ」

 こちらのことを話すのは、構わないけれど。二人の方は大丈夫なのだろうか。サダメが

驚いた顔でヤゴロウを見つめた。

「お前、いいのか」

「いいさ。本当に、今日会ったばかりだけど、イチなら信じられる気がするんだ」

 ヤゴロウが、そう言ってくれるとは。サダメやイチよりも、大人の色々な面を知ってい

る、ヤゴロウが。イチはちょっとだけ、得意な気持ちになった。サダメも、信用してくれ

たらしい。

「そっか。俺も、イチにだったら、話していいと思う。イチは大丈夫か」

「うん、僕も構わない。最近、母さんから、“慈悲の手”のハルキから、聞いたことだけ

 どね」

「おいおい、これからユイの講元目指す坊ちゃん達が、夜中に集まって、みんなで誓い文

 を破ろうってか」

 まさに、話しを始めた時だった。

 入口から響いた声に、三人は身をすくめた。

 ゴロウザだ。そばに何人かの、若い男の人達を連れている。ゴロウザも、男の人達も、

鎧は着ていないけれど、鞘付きの剣を持っている。それに、指に光るのは魔石の指輪だ。

ソルジャーは、簡単な攻撃魔法も使える。

 まずい。二人が巻き込まれるのだけは、避けなければ。二人を押しのけ、イチはゴロウ

ザの真正面に立った。

「この二人は、僕に資料を渡しに来てくれただけです。消灯の時間が過ぎてしまったのは

 申し訳ありません。お父さんのことも、本当に、すいませんでした」

 イチはそう言って、勢いよく腰を折った。はいつくばって謝れと言われたなら、それも

やるつもりだ。とにかく、二人に迷惑がかかるのだけは防ぎたい。

 ゴロウザが早足で歩み寄って、イチの胸倉を捉える。

「資料だと? お前、まだここに居座る気か。あれだけ言ってやったのに、裏切り者の分

 際を、わきまえねえってのか」

 鬼を連想させるその顔。でも、イチはもう、怖くはなかった。全ての人が、イチのこと

を青面頬と結びつけているわけじゃない。サダメやヤゴロウ、ツガルにシマも、イチを憎

んでいるわけではない。

 そうだ、よく考えれば、今まで出会ったカナメだってハヤテだって、カインだって。誰

も、フユキを憎んでいないじゃないか。たまたま出会ったゴロウザが、フユキを憎んでい

るからといって、息子の自分が、全ての人に嫌われるなんて。怖がることは、無かった。

 おびえないイチに苛立ったのか、ゴロウザは喉を締め付けるように、上着の襟を締め上

げてきた。物凄い力だったが、イチは必死に言葉を絞り出した。

「……父さんの、したことは、息子として、あやまります。だから、どうか、僕のことで

 二人に、迷惑、かけないでください」

 言い終わるか終らないかの内に、ゴロウザの拳が飛んだ。左頬を殴られ、よろめいたイ

チは、近くにあった薬の戸棚をつかんでどうにか立ち止まった。

 痛い。でも、もうそれほど怖くはない。イチは真っ直ぐに、ゴロウザを見つめた。

「その目だよな。その腹の立つ顔、同じ顔で、あの綺麗な慈悲の手に、汚え種を撒いた奴

 が、俺の右腕を斬り飛ばしやがった。……キサラ、トクジ」

 名前を呼ばれた二人の男の人が、イチの両腕を抱えて、後ろ手に押さえつけた。それだ

けじゃなく、細い縄のようなものが、手首に回されるのが分かった。

 抵抗しようにも、二人はよほど慣れているのか、あっという間にイチは手首を縛られて

しまった。

「俺が見てやるよ、お前がどこまで親父と同じか。行くぞ」

 ゴロウザが歩き出すと、二人の男もイチを促した。促されるまま、イチも歩かされた。

「イチ!」

 さすがに、サダメもヤゴロウも黙っていなかったが、二人とも、いつの間にか他の男の

人に抑えられていた。イチばかり見ていたせいか、キサラとトクジ以外の男が、後ろに回

るのに気が付かなかったのだろう。

 引っ立てられて歩きながらも、イチは二人に向かって叫んだ。

「大丈夫だよ! 二人とも、僕のことはいいか」

 横から、キサラに殴られた。口の中を切ったらしい、黙らざるを得なかった。

 

木戸から向こうの廊下は、静まり返っていた。

 足音以外、何も聞こえない。廊下には照明も無いらしくて、暗闇ばかりが続いている。

ゴロウザ達に囲まれ、後ろ手に縛られて歩かされていると、本当に、これから地獄へ降り

ていく様だった。

 イチは、自分が、人から罰されるような悪いことをしていない自信がある。物を盗んだ

こともないし、人を騙したこともない。喧嘩は少ししたことがあるけど、大きなけがをさ

せたこともない。

 それなのに、今こうして、罪びとの様に歩かされている。この先には、ゴロウザの私刑

が待っているのだろう。

 本当に、イチは何もしていないのに。なぜ、こんな。

 絶対に、いけないと思っていたけれど、イチはフユキの、青面頬の子に生まれてしまっ

たことが恨めしくなってきた。

 母さんは、いい。でも、父さんは何故、裏切ったりしたんだ。

こんな風に、自分の息子が苦しめられることを、考えていたんだろうか。

 死んでしまって、もう絶対に会えない父さん、それを憎めばいいのか。いや、そんなこ

とは、やっぱり絶対にできない。でも、それならどうすれば。迷いと淀みを映すように、

暗闇の廊下は、どこまでも広がっていた。

 

※ 2012年1月30日掲載

 

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