| 美脚に捧げる 「溺れる市民」河出文庫所収
生きていれば、四十三歳だが、現在に至るまでノリコは十一歳で、身長百四十五センチのまま。前髪をピンで留めていて、人と話す時はやや上目遣いで、微笑を絶やさず、いつも笑窪ができていた。歯の矯正をしていたせいか、口を開けて笑うことは少なかったが、音楽の時間に歌を歌う時は、金属のブリッジが光った。
金曜日の朝、冬樹がいつもより早めに学校へ行くのは、朝礼前に行われる恒例のフォークダンスが目当てだった。八時十五分になると、校庭のスピーカーから聞き慣れたフォークダンスの音楽が鳴る。すると、フォークダンス委員会の男女が率先して、踊り出し、そこから踊りの輪が広がってゆく。校庭で遊ぶ児童たちもたまたまそばにいる男女でカップルを組み、手を取り合い、半ば強制的に踊りに参加させられる。それがいやで、金曜日は家を出るのを遅らせる同級生もいたが、冬樹はまさに踊らんがためにいつもより十分早く家を出るのだった。もっとも、冬樹は気に入った女としか踊らない主義を貫いていたので、音楽が鳴る前の五分間、校庭を歩き回り、踊る相手の目星をつけておく必要があった。
ああ、砂場のところにヨーコと一緒にノリコがいるな、と思うと、冬樹はクラスのもう一人の男ノムラを誘って、砂場に移動しておくのだ。さりげなく、あくまで偶然と映るように。ノムラはヨーコが好きだ、と以前から冬樹に告白している。そして、冬樹はノリコ。
音楽が校庭を満たす頃、砂場に現われた冬樹たちを二人の女は、また来たの、とでもいいたげに迎え、意味深な微笑みとともに、踊りの輪に誘われてゆくのだった。金曜日の朝、十一歳の二人が冬樹に見せたあの表情は、そのまま化石になって、今も冬樹の記憶の地層に埋まっている。それは、三十年後、金曜日の夜、常連客の冬樹を迎えるバーの女の表情とだぶる。
ノリコの脚は綺麗だった。担任の教師も思わず舌なめずりしてしまうほどに。二十代の教師はノリコに伝言を頼む時も、試験の答案を返す時も、ノリコの脚に視線が流れた。意味なく教え子を励ます癖があったが、相手がノリコの時はブルマから伸びた長い脚をさするのだった。
ある冬の寒い日、ノリコはミニスカートにパンティストッキングをはいてきた。同級生が毛玉のついたタイツなどはいている中、一人灰色のストッキングに美脚を包んでいたので、輝いて見えた。脚から大人の女になっていた。もっとも、素脚の肉感を伝えるストッキングと名前が書かれた上履きの組み合わせはちぐはぐだった。それでも冬樹は担任の教師とともに、ノリコの脚に気を取られ、授業もうわの空だった。
昼休み、ノリコが校庭で縄跳びをして、教室に戻ってくると、ストッキングには伝線が走っていた。冬樹の目に、それは太腿の裏を走る痛々しいみみず腫れと映った。ノリコは平然としていたが、実はその痛みに耐えているのだと、思った。冬樹はノリコを保健室に連れてゆき、そのみみず腫れを手当てする自分を想像していた。
ここに一人の脚フェチ男が誕生する。冬樹は母のパンティストッキングを盗み、それがノリコの脚を包んでいたと想像しながら、頭にかぶったり、自分の首を締めたり、腹巻にしてみたり、自分の脚を通してみたりした。やがて、伝線が走り、破れてしまうと、それを昆虫を飼う箱の被いに使った。のちにそれをカメラのレンズにかぶせると、輪郭がはっきりとした美しい写真が撮れることも発見した。冬樹の創意工夫の才を刺激したのは、ノリコのパンティストッキングだった。
小学六年当時の同級生が担任の教師の定年退職を機に、三十年ぶりに同窓会を催した。互いに変わり果てた姿で再会を果たした元六年四組の面々は、三十年前の無邪気さそのままに当時の学校生活を振りかえった。冬樹は誰よりもノリコとの再会を期待したが、彼女は現われず、美脚の現在や矯正後の歯並びを確かめることはできなかった。
クラスで最も巨大だったヒデだが、小学校卒業後、すぐに成長が止まったらしく、小柄な中年になっていた。こんなチビにいじめられていたのか、と冬樹がヒデを小突くと、「何だよ、おまえ、いじめられたいのか」とヒデはすごんでみせた。全然怖くなかった。一人、現在の顔と三十年前の顔が一致しない男がいて、「君、誰だっけ」と訊ねると、「手先が器用だったハギワラだよ」といった。よく一緒に遊んだし、互いの家にも泊まりに行った仲だったが、頭が薄くなっていたのでわからなかった。ハギワラは手先が器用な特性を生かし、技術系の仕事に就いていた。ノムラはいまだ独身で、稼いだ金の大半をオーディオ機器とアダルトビデオに費やしている。そのノムラが好意を寄せていたヨーコは今や貿易会社社長夫人で週に一度のエステ通い、中学生の母親になっても、美貌を保つ努力をしていた。ノムラはやや臆しながら、駄目元でヨーコを口説こうとしていた。小学生の頃から、お母さんに間違えられたエンちゃんの容貌は今も当時と変わらず、彼女だけが三十年前からタイムスリップしたみたいで不気味だった。小学校時代のスカートを今でもはけると自慢していたが、誰も驚かなかった。
幹事のノブが持ってきた卒業文集には、それぞれの将来の夢が記されていた。憧れの職業の一覧表である。花屋、美容師、スチュワーデス、野球の選手、弁護士、国鉄職員……彼らの夢の大半は果たされなかったことを、誰もが苦笑しながら、認めた。
酒が入った同級生たちは、互いに過去の恥を掘り返すので、根深いところに眠っていた三十年前の記憶が蘇る。偶然に同じ教室で一年間を過ごした面々はそれぞれの逸話を持っている。変わり果てたその顔を凝視していると、個々の逸話が、キャラクターが浮かび上がってくる。ああ、こいつは手先が器用で、竹細工をやらせると、実に几帳面な職人技を発揮していたな、とか、こいつは怪我ばかりしていて、保健室に入り浸っていたな、とか、彼女はバレーボールのトスを上げるのが上手で、スカートの下にいつもブルマをはいていたな、とか、彼女はバレリーナに憧れていたが、太目でよく転んでいたな、などと。冬樹は、そうした個々の特徴に加えて、雪合戦で中に石を入れた玉を投げたとか、鯉にいたずらをしようとして池に落ちたとか、灰色のパンティストッキングを履いて学校に来たとか、瑣末なことまでいいだすので、同級生たちはその記憶力に舌を巻いた。自分のことをいわれているのに、その記憶を本人たちがなくしていることもしばしばだった。
――おまえがそんなに記憶力のいい奴だったとはな。それで今の仕事には役立っているのか、その記憶力?
そう訊ねるノムラに冬樹は「オレは忘れてもいいようなことしか覚えていないから」と鼻の下をこする。デパートに勤めていれば、顧客を覚えるのに少しは役立っているだろう。
デパートで何売ってるの、と安く買い物をするコネを求めているのか、ヨーコが訊ねる。
――婦人靴。お安くしますよ。
それを聞いて、ノムラは、女の脚を眺めて暮してるんだな、と羨ましがる。ノブはすかざず卒業文集を調べ、冬樹が三十年前に思い描いた夢を確認する。
――おまえ、パイロットになるって書いてあるぞ。
――ああ、それは冗談だ。空を飛ぶのはやめて、地面に張り付いていることにしたよ。
――おまえ、女を見る時、脚から見るだろう。
――靴屋だから、当然だ。趣味はバレー鑑賞だ。
――踊りを見ずに、脚ばかり見てるんだろう。
グラスを載せるコースターよりも狭い舞台上の一点につま先を置き、独楽となって回転するバレリーナの脚ほど美しいものは、この世にはいくつもない。回転の軸となり、跳躍のバネとなるしなやかで強靭なふくらはぎ、太腿、空中で翼のような百八十度に開かれるその脚の持ち主こそ冬樹の女神であった。生活の苦労も、自分が犯した失敗も、美しい脚を崇拝することで忘れようとしてきた。女性の脚に奉仕する靴屋としての自覚もまた、冬樹が自らのために編み出した宗教によって、芽生えたのである。そして、冬樹の思いは再び、灰色のパンティストッキングをはいたノリコの脚に戻ってゆく。彼女の脚こそが今の自分を作った……そのことを三十年後の今、告白し、感謝したかった。ノリコが同窓会の場にいないのなら、せめて誰か彼女の消息を知る同級生に会い、その美しい脚の行方を知りたかった。
冬樹はノブが持って来た卒業文集を開き、ノリコが何を書いているかを調べた。あの脚の持ち主は、バレリーナか、ファッションモデルとしての自分の将来を思い描いていたに違いない。
――ノリコの苗字はなんていったかな。
抜群の記憶力の持ち主だったはずの冬樹は、どうしたわけか、彼女の苗字を度忘れしてしまった。
――ノリコって誰だっけ?
ノブが首を傾げる。まさか、この幹事はノリコを同窓会に招待するのを忘れたのではないか、冬樹はノブのとぼけた顔に舌打ちし、ノリコと仲がよかったヨーコに訊いた。
――君はよくノリコと一緒にいたよね。彼女はどうしているんだろう。
――ヨリコなら、そこにいるじゃない。
ヨーコは三十年前とほとんど容貌に変化のないエンちゃんを指差した。エンちゃんは遠藤頼子という名前であることくらい覚えている。
――ヨリコじゃなくて、ノリコだよ。歯の矯正をしていた。一緒に遊んでいただろう?
――エンちゃんとはよく遊んでいたけど、ノリコなんて知らない。
――おまえ、別のところでフラれた女と勘違いしてるんじゃないの?
ノムラまでそんなことをいいだす。金曜日の朝、おまえはヨーコと、オレはノリコとフォークダンスを踊っていただろう、記憶力悪いな、と冬樹はノムラの肩を叩く。
――ノリコは死んだよ。
ノブが冬樹の耳元で囁く。
――いつ?どうして?
冬樹が真顔で問い質すと、ノブは薄ら笑いを浮かべて、二十歳の時、ヤクザに刺されて、横浜港に浮かんでいたらしい、という。ノムラは、つまんねえよ。もうちょっとましな話作れよ、とノブを小突く。元同級生たちはグルになって、自分を担ごうとしていることに気付き、冬樹は不機嫌になる。
――ノブ、勝手に同級生殺すなよ。
――おまえこそ、勝手に同級生増やすなよ。
――ノリコにちゃんと連絡したのか?
――そんなに会いたいなら、おまえが探して連れて来りゃいいじゃないか。一人で幻のノリコを懐かしんでろ。
元同級生たちがこれほど、ノリコに冷たいとは夢にも思わなかった。ノリコが一体何をしたというのだ。なぜ、彼女だけが忘れられなければならないのか?この卒業文集には、ノリコが幻の女ではない証拠が刻まれているはずだ。冬樹は彼女の名前と筆跡をノブに突きつけてやろうとした。ところが、いくら探しても、文集にはノリコが書いたページがない。ページは全て繋がっており、切り取られた形跡はなかった。
おまえ、酔ったか、とノムラが冬樹の背中をさする。心配げに冬樹を見遣るノブやヨーコの表情には、もうからかいの色はなかった。冬樹は譫妄状態に陥るほど、飲んではいない。そうだ、冬樹とともに密かにノリコの脚の虜になった坂本先生ならば、忘れはすまい。ノリコの脚をさすったその手が覚えているはずだ。
――先生はノリコのことを覚えていますね。
微笑を絶やさず、教え子たちの会話の聞き役に回っていた先生は、冬樹の問いかけに、きっぱりと応えた。
――中学の同級生のことはわからないよ。
――六年四組ですよ。
――君たちの同級にノリコという名の子はいなかっただろう。
――ここには来ていません。でも、先生はいつも彼女の脚を眺めていましたよ。
――脚のある幽霊の話かい?
――その手でノリコの脚をさすったじゃないですか。
――触りたくても触れないよ。そんな子はいなかったんだから。
元同級生たちはにわかに無口になり、冬樹を見つめる顔に怪訝な表情が浮かんで来た。彼女は一体何処へ消えてしまったのだろう。六年四組の元同級生たちの目にノリコは見えなかったのか。しきりに首を傾げる冬樹に、エンちゃんが三十年前とほとんど変わらない声で囁く。
――そういえば、冬樹君、よく独り言を呟いていたわよね。
坂本先生もいう。
――君は授業中、あさっての方を向いて、思案にふけっていたね。
オレは教室には存在しないノリコと話し、誰の目にも見えないその脚を眺めていたというのか。オレはいったい誰とフォークダンスを踊っていたというのか。もし、元同級生たちのいうことが本当で、ノリコが冬樹の妄想の中にしか存在しない同級生だったとしたら……冬樹のこの鮮やか過ぎる記憶は何処から紛れ込んで来たのだろう?自分の記憶に三十年ものあいだ保存されてきたノリコを、いまさら、どうすれば削除できるというのだろう。彼女は今もあの伝線が走った灰色のパンティストッキングをはいたままだ。それを脱がせたところで、女の脚に捧げた冬樹の人生をリセットすることはできない。
求愛の神話 (全文)
島田雅彦
神はどんな動物も二種類つくった。完全な生き物と不完全な生き物である。ヒトも二種類いて、完全な方は女、不完全な方は男になった。どちらにも永遠の生命を与えはしたが、不完全な生き物の方は成長とともに、狂い、悪くなってゆく。神は自分の失敗作を恥じ、女だけを地上に下ろすつもりだったが、男も何匹かが檻から脱走し、地上に下りてしまった。神は男と女が交わらないように女を森に囲い込み、そこを聖域にし、男が入ってこられないようにした。男と交わると、女もまた不完全な生き物になってしまうからだ。
森に暮らす女は動物たちとともに眠り、動物たちが食べるものを食べ、動物たちと交わり、泣く時も笑う時も動物たちと一緒だった。ある日、女は見たことのない動物と森で出会った。熊のようでもあり、猿のようにも見えたが、二本の脚のあいだからは太い枝が生えていた。その動物は池のほとりでうずくまり、苦しそうに呻きながら、天を仰ぎ、神を呪っていたので、女は何があったのか訊ねた。その動物は悲しそうな目をして、自分の生い立ちを語り始めた。
生まれた時から私の体にはこの枝が生えていました。子どもの頃はまだ柔らかく、小さかったのですが、時が経ち、枝は太く長く、そして硬くなり、天を睨みつけるようになりました。私は苦痛に身動きさえできず、こうして嘆くしかないのです。この枝は実をつけるわけでも花を咲かせるわけでもありません。いっそのこと切り落としてしまいたい。でもそうするともっと大きな苦痛を味わうことになるのです。どうか助けてください。
女はその動物を連れて帰り、苦痛の元になっている枝を暖めたり、水をかけたりしてやったが、効き目はなかった。そこに蛇が訪ねてきて、こういった。
その枝はよく見ると、自分に似ている。だから、いつも私たちがしているように、あなたの穴にその枝を入れてみたらどうだろう。
女は蛇のいう通りにしてみた。すると、不思議なことに枝は柔らかくしぼみ、その哀れな動物は苦痛から解き放たれた。動物は女に感謝し、森を去っていった。あとで蛇が女にいった。枝がなければ、あの生き物はあなたにそっくりだった。きっと男という生き物に違いない。気をつけなさい。
それ以来、女が暮す森には枝の生えた動物が何匹もやってくるようになった。同じ苦しみを抱える彼らを哀れに思い、女は苦痛の種になっている枝を愛撫し、自分の穴に受け容れてやった。来る日も来る日もその儀式が続いたせいで、女は傷つき、血を流し、弱ってしまった。それでも枝の生えた動物たちは彼女の臥所に列を作り、嫌がる女の穴を強引に押し広げた。女を助けようと、森の動物たちが彼女の臥所を守り、枝の生えた動物を追い払おうとした。そして、戦争が始まった。森の動物たちよりも賢く、さまざまな道具や罠を使いこなす枝の生えた動物は熊や猿や鹿や猪や鳥たちを殺し、たちまち森を征服してしまった。蛇がいった通り、その動物は神が作り給うた失敗作である「男」だった。このままでは森の動物たちが滅びてしまうと心配した女は、最初に交わった男にこういった。
私はあなただけのものになります。もうあなた以外の男とは交わりません。
それを聞いた男は森の動物たちを殺すのをやめると女に約束し、今度は女を守るために自分の仲間同士で戦争を始めた。神が不滅に作り給うたので、男たちは死ぬことができず、永遠に戦争を続けることになった。そのあいだに女の腹が大きくなり、やがて双子が生まれた。森の動物たちといくら交わっても、子どもは生まれないが、男と交わると両方の特徴を受け継いだ子どもが生まれてしまう。完全な生き物の血に不完全な生き物の血が流れ込んだら、地上には不完全な生き物だけがはびこることになる。神は嘆き、怒り、女と男が交わった罰として、新たな苦痛を与えることにした。
永遠の命を授けられていた人間は、歳をとり、皺がよってくると、蛇のように脱皮し、若返るのだった。神はその脱皮に大きな苦痛を与えることにした。女と男は脱皮のたびに三日三晩苦しみ抜かなければならなくなった。二度その苦痛を味わい、三度目の脱皮の季節が巡ってくると、男は神を呪い、また脱皮の苦しみを味わうくらいなら、永遠の命なんて捨ててやる、と呟いた。そして、森の動物たちのところへ行き、かつて動物たちを殺した罪を償うから、自分を食い殺してくれ、と頼んだ。動物たちはその願いを聞き入れ、虎と熊が男の手足をもぎ取り、猿と猪は内臓を貪り食い、鳥が目玉と脳をついばみ、骨についた肉は虫たちが食べ、血は大地に染み込み、草木を潤した。女は男の骨で棺を作り、その中に自分の身を横たえ、どうか、私にも死を与えてください、と神に祈った。神は泣きながら、女の願いを聞き入れてやった。地上からは完全な人間が消え、不完全な人間だけが残った。神は彼らが大きな災厄を引き起こさずに済むように寿命というものを作り、最初の脱皮の前に死ぬようにした。
女と男が交わってできた女と男の双子は生まれた森を追放され、離れ離れになった。姉は湖のほとりで暮らし、弟は砂漠で暮すようになった。成人した姉の元には三人の求婚者が現れた。白い男は誰よりも長い枝を生やし、誰よりも早く走り、誰よりも多くの木を切り、誰よりもたくさん食べた。黒い男は誰よりも太い枝を生やし、誰よりも重い石を持ち上げ、誰よりも多くの魚を獲り、誰よりも長く眠った。青い男は誰よりも小さい枝を生やし、誰よりも悲しい声で歌い、誰よりも多くの夢を見、誰よりも深く悩んでいた。
姉は一番小さく、弱い青い男を選んだ。白い男と黒い男は怒り、青い男を殺してしまおうとした。青い男は争いを嫌い、逃げだしたが、黒い男に捕まり、湖に投げ込まれてしまった。残った黒い男と白い男は戦い、ともに傷ついた。姉は二人の傷を癒すと、真夜中に湖のほとりに行き、青い男のために祈った。すると、湖から青い男が現れ、一緒に逃げようといった。青い男の背中に黒子が三つ並んでいるのを見て、姉は悟った。自分は双子の弟を愛してしまった、と。青い男は姉のニオイを覚えていて、同じニオイのする女を探して、旅を続けていたのだといった。再び出会った姉と弟は丸太に乗って、湖の対岸に渡り、自分たちが生まれた森へと帰って行った。
故郷の森に帰ると、姉は弟の子を身籠り、嵐の夜に男の子を産んだ。生まれてきた子を見て、弟は嘆いた。その肌は自分を湖に投げ込んだ黒い男と同じ色をしていたからだ。弟は自分が湖で溺れているあいだに黒い男と交わったといって、姉をなじった。しかし、姉には身に覚えのないことだった。弟は絶望し、引き留める姉の手を振り払い、森を去り、二度と戻ってこなかった。姉と弟のあいだに生まれた子は成長とともに肌の色が薄くなり、言葉を話すようになると、白くなり、森を駆け回る年には青くなり、森を去った弟と瓜二つの青年に成長した。そして、枝が太く長くなると、男に生まれたものの労苦を引き受け、旅に出た。父や祖父がやむにやまれずそうしたように女を求めて、山を越え、川を渡り、森をさまよった。そして、初めて海を見た。蛇の頭を持った巨大な気の箱が浮かんでいるのも見た。その箱舟に乗って、海の彼方へ渡るという男に会った。その青い男はいった。
おまえもこの箱に乗るがいい。近々、神が洪水を起こし、地上にはびこる災厄と邪悪なるものを一掃するだろう。今まで陸地だったところも水の底に沈む。
いわれるままに旅の男はその箱に乗った。青い男の予言通り、それから二月のうちに谷という谷、平地という平地は全て洪水に洗い流されてしまった。旅の男は箱舟で桃色の女に出会い、その女に母に似た懐かしい香りを嗅ぎつけ、求愛をした。だが、桃色の女はすでに青い男の妻になっていた。若い男は青い男に頼んだ。
あなたの枝はもう枯れ、若い頃に感じた苦しみを味あわずに済んでいる。だが私は今とても苦しんでいる。だから、どうかあなたの妻を私に譲ってください。
青い男がそれを拒むと、箱舟に乗せてやった恩を忘れたか、旅の男は激情に駆られ、青い男を海に突き落とし、桃色の女を強引に寝取ってしまった。旅の男が殺した青い男は自分の母の弟であり、自分の父親であった。洪水が引いたあと、箱舟は砂漠に漂着した。桃色の女は子どもを身籠った。その子は産声を上げることもなく、朝を迎えることもなく、生まれて間もなく死んでしまった。娘の肉は蝋のように溶け、口からは黒い油を流した。そして、日が昇ると、娘の死体は自然に燃えてしまった。目玉だけが焼け残ったが、それはガラスでできていた。
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