img20.jpg Essays

 

 
 
→  Geolog
→  E-mail















→Home  →My Works  →Profile  →カオスの娘  →Essays  →Video  →Other Languages
 

essays     

無断転載は嫌よ。

contents

1, グーテンベルク聖書初版本閲覧記

 

2、クリスタル

 

グーテンベルク聖書初版本閲覧記

 パリのアカデミー・フランセーズの図書館に収蔵されているグーテンベルク聖書の初版本を特別に見せてくれるというので、わくわくしながら閉館を待った。閲覧室から人がいなくなると、司書の人が恭しく、別室に保管されていた箱入りの聖書を運んできた。想像していたより一回り図体が大きく、百科辞典のようだ。豪華な皮装で背にラテン語でぶっきらぼうに「BIBLIA SACRA 1455」と箔押しが施されていた。

 自ら開発した活版印刷術でグーテンベルクが最初に印刷したのがこの聖書で、初版は百五十部だったという。現存しているのはそのうちの四十部で、うち一部は日本にもある。少し前に慶応大学が購入したはず。今日の大量複製の時代、百五十という数はまさに些少であるが、十五世紀にあっては、世界を覆すに十分な数であった。活版印刷術発明以前の千年に流通した書物の数よりも発明後の五年間に流通した書物の数の方が多いという事実を思い出せばよい。

 司書は箱から取り出した聖書をV字のクッションの上に置いてくれた。「触ってもいいですか?」と念のために許可を得てから、皮の表紙をめくった。表紙と中身をつなぐ見返し部分はマーブル紙で飾られていた。この装丁は後になってから、修復をかねてやり直されたようだが、中身は出版当時のままである。マーブル紙はフィレンツェで人気を博したデコレーションペーパーの一種で、海草を煮て作ったスープの上に絵の具を垂らし、それを軽く混ぜ合わせて複雑な模様を作り、それを紙に転写し、乾かして作る。今も土産物として売られており、本の装丁や壁紙として長らくヨーロッパで親しまれてきた。

 そのマーブル紙をめくると、遊び紙もなく、扉もなく、目次もなく、いきなり本文が始まっていた。聖書の書き出しだから、『創世記』の天地創造の場面である。目に飛び込んできたラテン語の活字は手書き文字のように見えた。揺籃期の活字は手書きの写本に用いられてきたフォントを模倣して作られているのだから、当然だともいえる。さらに活字の組み方も写本を踏襲している。前後二段組みで、改行はほとんどなく、一ページ当たりの行数は四十二になっている。しかし、途中から行数が増え、一段あたり四十五行に変わっている。これは印刷を始めた段階で、思ったより紙の消費量が多くなることに気付いたグーテンベルクが急遽、行数を増やし、紙の節約に努めたせいだという。一ページにつき三行余計に活字を詰め込めば、十四ページにつき一ページの紙の節約になる。一冊につき三十ページ以上も節約できる計算になる。そうまでしてケチらなければならないほど、当時、紙は高価だったのである。さらにラテン語の単語も省略形を多用し、情報の圧縮に努めた。改行が少ないので、段落の始まりの文字を大きくし、手書きの装飾を入れている。今でも物語の本は書き出しの一文字を大きく刷るが、それは写本の時代の名残だったのである。

 活版聖書の初版本のうち紙を用いているものは半分で、残りは羊皮紙が使われている。羊皮紙というのは紙のように用いられる皮で、紙漉きの技術が中国からペルシャ経由でヨーロッパに入ってきたあとも、しばらくは使い続けられた。紙より高価で、表面のインクが消えやすいというディメリットにもかかわらず、羊皮紙に愛着を抱いた人が多かったのは当時、紙の寿命に疑問の声があったからだ。中東から伝わったものなんてろくでもないものだという偏見も根強かったという。

 ところで、紙の最大のメリットは安価なだけでなく、文書の偽造がしにくいという一点にある。羊皮紙に書いた文字は消して、あとから違う文字を書き込むことができる。したがって、偽造しやすい。だが、紙は最初に書いた文字の痕跡が残る。たとえていえば、紙にペンで書く行為は刺青を入れるのに似ている。紙の表面を鋭利なペン先で引っ掻き、傷をつけ、そこにインクを流し込んだら、刺青と同様、一生消えることはない。中国や日本では墨をつけた筆で文字を書くが、吸水性のいい紙は墨を繊維の奥まで含むので、これまた一度文字を書きつけたら、偽造は難しい。ペルシャ人はそこに注目した。権力の正当性を示すのも文書、命令の通達や出来事の記録も文書に拠っていたがため、文書偽造は権力の基盤を揺るがす。いわば、紙は権力の安定に一役買ったのだ。

紙の製法が中国からペルシャに伝わったのは唐の時代である。サラセン帝国との戦争で大敗を喫した唐軍の捕虜の中に紙漉き職人がいた。権力者がガードをかけていた秘法も戦争に負ければ、敵方のものとなる。それでも紙の発明からずいぶんと時間がかかった。日本に伝わったのも唐の時代だ。ヨーロッパに伝わるにはさらに数百年の歳月を要した。

十三世紀後半、ヨーロッパで本格的な製紙が始まる。中心地はイタリアのファブリアーノだった。このマルケ州の地方都市は観光客も少なく、「そこへ行く」というと、イタリア人は「紙に興味があるのか」と聞く。博物館には一二八五年に漉かれた紙が残っている。稚拙ながら、透かしまで入っている。頼むと、現代の職人が当時の紙漉きを再現してくれる。和紙は楮、三椏を原料に漉くが、ヨーロッパの紙の原料は綿や麻のボロ布である。それらを石灰にまぶし、繊維をもろくし、細切れにして、水を加え、臼に入れ、杵で叩く。粉轢きと同様、水車が用いられる。気長に叩くと、紙粘土のようなものができる。それを小麦などを煮て作った糊と混ぜて、長時間煮込み、とろみの付いたスープをつくり、それを銅の金網でできた漉き桁で漉き、水分を抜き、ローラーにかける。これではまだインクがにじむので、動物の皮を煮てゼラチン豊富なスープを作り、紙をそれにつけ、撥水加工をし、乾かし、さらに木製のバレンで表面を磨き、ペンやインクとの相性を高めるのである。一枚の紙を作るのにずいぶんと手間をかけていたのだ。ファブリアーノではさらに透かしの技術が磨き上げられた。精巧な針金細工を漉き桁につけたり、蝋版に肖像などを彫り、それを元に金属型を取り、銅の金網にそのエンボスを写し取り、それを漉き桁にすると、紙幣に入っているような写真のような透かしができる。これらの職人技ももっぱら偽造防止措置として磨き上げられてきたものだ。ちなみに現在のユーロ紙幣に入っている透かしもファブリアーノの工場で作られている。

 グーテンベルク聖書にもファブリアーノで漉かれた紙が用いられていた。紙の出自は透かしを見ればわかる。漉かれてからもう五百五十年以上経つが、いささかも劣化していない。多少の染みや虫食いはあるが、それはこの聖書をめくった人の指についていた脂や汗のせいで、紙自体は当時の強度を保っていた。

 その聖書は長い歳月を生き延び、諸都市を巡り、その都度、所有者も変わり、多くの学者や信者の目に触れ、また手に触れてきただろう。その来歴によって、幾分か目方が増えたり、威厳が増したりしたかもしれない。書物が社会変革に与えた影響は計り知れないが、グーテンベルク聖書は人と神を直接、取り結ぶ媒介になったわけで、一冊で教会ひとつ分、神父十人分くらいの仕事をやってのけたに違いない。活版印刷術はエポックメイキングな聖書の複製のあと、続々と学術書や文学作品の出版へと突き進む。パリの同じ図書館にはダンテの『神曲』の初版本も所蔵されているという。図々しくも「今度、パリに来た時に、是非見せてください」と頼んでみると、司書の紳士は快く「いつでもどうそ」と請合ってくれた。作者が滅んでも、本は不滅である。そんな落ちをつけたいところだが、近頃の本は寿命が短く、作者よりも早く滅びる危険がある。絶版、断裁は資本主義による淘汰だが、年に何冊かは確実に文化財としての価値を持つ書物が書かれていることを肝に銘じておきたい。

 

 

クリスタル

  

 人間は火や水や木や石と極めて長い付き合いをしてきたので、それらにまつわる記憶を脳にたくさん蓄えている。無意識を辿れば、個人的な思い出だけではなく、自分が生まれる以前の記憶や遠い先祖の記憶にも行き着くだろう。何しろ、私たちは水から生まれ、進化してきた生き物だし、木や石を加工して、道具を作った人類の末裔だし、火を使いこなして、より高度な道具を発明した職人の恩恵を受けている。川原や海辺に佇み、物思いにふけったり、真っ赤に燃える炭火に癒されたり、石ころや木片に懐かしさを覚えたりするのは、長い人類の営みを自分の体が覚えているからではないか。ひとつのグラスをとってみても、同じことがいえる。

透明なクリスタルのグラスにシャンパンを注ぐ。なぜか心も一緒になって泡立つ。薄い黄金色に輝くシャンパンで満たされたグラスは乾杯の声とともに鉄琴やチェレスタにも似た透明で、金属質の音を響かせる。その音は笑い声や愛の囁きの呼び水となる。この職人芸も見事な、見ていて飽きないグラスも実は自然の産物だ。砂鉄から刀を打ち出すように、粘土から壺や皿を作り出すように、鉱物を火にくべ、飴のように柔らかくし、息を吹き込み、形を作り、装飾を施すのである。

道具は単に実用的なだけでなく、美しくなければならない。ただ水を飲むだけなら、掌で十分だ。けれども、人は水や酒と一緒に感情も飲み交わす。誰かと一緒に飲む時も、一人で寂しく飲む時も、喜怒哀楽をグラスに溶かし込むのである。

だから、グラスも選ばなければならない。グラスもまた人を選ぶだろう。聖杯は王にふさわしいものだけが口をつけることができるのだ。この杯はおまえとオレの絆そのものだ、そう相手がいえば、その瞬間に契りが成立する。

人間もグラスと同じ、脆い器である。美しいグラスも美しい人も傷つきやすく、壊れやすい。脆いものはいつくしんでやらなければならない。その器が大きくても、小さくても、いつも喜怒哀楽で満たされている。時には他人の尊敬や愛情や嫉妬も注がれる。私たちがグラスに口をつける時、自分の心の器に注がれたものも一緒に飲み干すのである。だから、気に入ったグラスは自画像でもあり、また理想の自分を映し出しもする。