ゴルフの仲間
Special Report From Garmany

 そんなことは劣等感を感じることではないと人から思われるかもしれませんが、誰もが持っていることで、他人はあまり気にしないことが多いようです。私の切実な劣等感があります。言わなければ分からないことだと思います。
 猫背
 生まれつきです。子供のときから、父親の背中を見ながら気になっていていたことは、猫背である。男の子は父親の背中を見て育つといいますが、父親は背は高かったし、ハンサムだったが、極端に背中が丸まっていた。私もそっくりだった。
 子供の頃から、列の先等に立って並ぶことが多かったし、旗を掲げて歩くことが多かった。そのたびに胸を張ってと先生に注意された。自分としては胸を張っているのだが、まだ、猫背なのだ。自分ではそっくり返えらないとまっすぐにならないのだ。非常に無理をするし、常に意識をしていなければならかった。
 中学三年になったばかりの修学旅行の二三日前に集団行進の訓練を校庭でした。三年一組の先頭は私だから、全員600人の先頭は私だった。三年二組の山内先生が朝礼台に立って、マイクを握って、行進の指令をしている。わたしが先頭で歩きだしてまもなく、「太田胸を張れ」と言われた。何回か注意され最後には「先頭からはずすぞ」とも言われた。生徒、教師全員が聞いている。私は落ち込んだ。遺伝だからしょうがないだろう、とも思った。
 自分の写真を見るのは嫌いだ。必ず、猫背だからだ。写真を撮られることが分かっていれば胸を張ることを意識する。それでも結果は猫背である。
 ゴルフの距離がでないのも猫背のせいではないかと思う。ゴルフがへたくそな劣等感も原因はおなじではないかと思う。
 後日談、中学の学年会を5年おきに実施している。11組平均20人ぐらい合計250人位は集まる。その折、担任の先生を招待する。その学年会の幹事や手伝いをいつもやっているが、礼の隣の組の担任、山内先生にお会いする。そのほかの事で、私のことをよくご存知なので、当時の話はいくらでもできるが、その行進訓練の話は全くお忘れになっていた。
 この先生とは、その後、囲碁の関係で先生チームの主力になっていたので、囲碁で対戦する機会が多かった。インドネシアへ最初に赴任するとき、当時の小中学校の校長先生で囲碁愛好者の方々が、私の壮行囲碁大会を開催してくださった。私が中学生のとき皆さん二十代の若き教師だった方々でした

 

 






 

ふけ
 是も遺伝。今でもインドネシアのオカマ美容師にクトンベ(ふけのインドネシア語)が多いと言われる。そして、頭を良く洗うように注意される。ふけに効くシャンプーを買うように勧められる。いやになってしまう。
 母親からの遺伝である。子供の頃、母親が、私を薬局へつれて行き、頭を見せさせ、薬を買った。それを頭にかけて一日様子を見た。頭の皮膚が一皮むけるように毛穴が不気味な透きとおった皮膚がはがれた。これで、治ったと思ったのでしょう。それ以上振り掛けることはしなかった。しかし、学校へ行ったら友達の一人がお前の頭、後ろの方皮が剥けているぞ、と言われて、触ってみたら昨日と同じような気持ちが悪い穴あきの皮膚が指にペロッと引っかかった。友達は、なんだなんだと寄って来る。説明しないで笑ってごまかした。全く恥ずかしい。それ以後も、いろいろな薬やシャンプーを試したが、いずれも何の効果もなかったどころか、次第にひどくなっていった。
 散髪屋へは全く行かず高校三年まで家でバリカンで坊主頭にしていた。坊主頭にしておけばふけは目立たないと思ったからだ。
 しかし、大学で坊主頭というわけにいかないと思い、伸ばし始めた。その時から、散髪屋に行くのはいやだった。散髪屋へ行く前に必ず頭を洗ってから行く、それでも、散髪屋によっては露骨にいやな顔をする。他のお客さんに移してしまう、などとぶつぶつ言った散髪屋もあった。

 顔中ひげで、髭剃りで皮膚を切る
 
ほっぺたにも毛が生える。剃らないと顔中髭だらけになってしまうことが他人に分かってしまう。だから、毎朝髭をそる。ま、毎日髭をそる人は普通にいるし、接客業の人は二回剃る人もいる。だから、そう苦にはしていない。
 また、散髪屋での髭剃りは断っている。どんな上手だろうと思われる散髪屋でも私のひげを剃って血を流さない人はいない。修行中の女の子が剃った時、血が流れ始め、剃る場所を代えていくにしたがって、血がだらりだらりと流れ出した。私もそのたびにちくりちくりと感じる。あご中、とほっぺたから血が滴りだした。女の子は泣き出してしまった。そこの店主が何事かとのぞきに来て、びっくり、平謝りに謝っていた。
 本当は、僕の方が,断る勇気が無かったのが悪かったのだが、気の毒なことをした。その後も眠ってしまって、髭剃りを断るのを忘れて、ちくっとされて目を覚まし、あわてて断ったことも何度かあった。
 今は散髪へ行く前に、頭を洗い、髭もそりる。その上、日本でもインドネシアでも決まったところしか行かない。
 自分で髭をそるときはできるだけ剃刀は長い期間使う。切れが悪い方が血を流さないからだ。毎日使って三ヶ月以上は使う。新しいものに交換すれと一週間ほどは何箇所か血を流す。
 結局、頭も顔も私の皮膚はふけ症で何かと引っかかりやすくなっているのでしょう。

 アルコールアレルギー
 
アルコール中毒では有りません。これは、父方からの遺伝。これは致命的劣等感である。とのかく、一滴も飲めないし、どんなお酒でもビールでもウイスキーでもワインでもにおいが嫌いだ。一滴なめても不味い。
 病院の看護婦さん、注射の前の消毒のアルコールをさっと塗ってビックリしてしまう。ぱ〜と塗った場所が真っ赤になったしまう。塗りすぎると湿疹が出てしまう。
 学生時代やサラリーマンの時は大変つらかった。先輩達が無理強いをするからだ。何回、はいたか、何回前後不覚になったかしれはしない。それも、ほんのちょっと飲んだだけなのに、である。人によっては、私に無理強いした後、あわててしまう人もいた。
 ビヤガーデンなどは非常に困った。まだ明るいうちに、ビールを杯一杯くらい飲んだだけで、ひとりで全部飲んだように真っ赤になって、目が座ってしまうのだから、一緒いる人たち誘った人たちがビックリしてしまう。私は断っているのに誘ったからだ。それ以後、同じ人が私を誘うことは無い。
 自分で社長になってしまった理由の一つは、酒に誘われなくてすむと考えたからだ。実際、社長になってからは、どこを訪問するにも車で出かけた。会社の宴会では、飲まないで、勧めるだけである。皆分かっているので、私が飲まないからといってぶつぶつ言う従業員はいない。本当に助かった。
 その後も,アルコールに関しては、とにかく酒の話は何を言っているのか分からないし、理解もできない、薀蓄を述べられても、なるほどと,頷くだけで、記憶はまったく残らない。実感が全く無いから、覚えても仕方が無い。人に語れないし、黙ったいるしかない。私に薀蓄を語っている人も、話甲斐が無いと思い、いつの間にか同情してします。
 もし酒が飲めたら人生は別物になっていたでしょうが、そのことは考えないようにしている。
 学生時代のコンパ以来、皆で割り勘はいつも私が大損である。是は死ぬまで続く。インドネシアでは特にアルコール類は高い。一人30万Rpということは普通だ。しかし、私が食べたり飲んだり(ソフトドリンク)した分は10万Rpにもならない。

 酒が飲めなくて、よく、社長が務まるな、とか、このくらいの酒が飲めないやつは信用できねえ、などと言うやつもいた。酒が飲めないからしからが無い。黙って聞いているしかなかった。

 
 足の親指が天を向いている
 
どうでもいいことですが、これも、母親からの遺伝です。両方ともである。指自体がそっくり返っている上に爪もそっくり返っているので、天を向いている。
 誰にもいわなければ判らないことではあるが、気になる。
 靴下は数回履けば穴を開けてしまう。まめに切っているのだが同じこと、時に布が薄い靴も穴を開けてしまう。学生時代は穴の空いた靴を履いていた。
 ドイツの下の孫の足の親指を見て愕然とした。見事に私と同じ天を向いている。上の子は前を向いていた。

 これらの遺伝的、他人より損と思っている特徴は猫背が娘に引き継いでしまった。その他はけれぐれも遺伝していかないことを願うばかりである。
 勿論、両親から引き継いだ遺伝は他人より得という方がはるかに多い。だから、私の両親には感謝である。子供や孫もそう思っていてくれることを願う。

 
ゴルフの距離がでない。
 
今までの一生のうち、懸垂が一回もできないから逆上がりもできなかった。腕力が無いのだ。殴り合いの喧嘩をしたことはないが、やったらすぐ負けるでしょう。
 それを踏まえて、ソフトボールは守備や走塁はかなりうまいと思うがバッティングはだめである。シングルヒットは打てるがそれ以上は打てない。
 55歳から始めたゴルフもやっぱりだめだった。とにかくどんな小さい人や女性の多くやフォームがでたらめな人より距離がでない。曲がってもいいから距離をもう10%でも伸ばしたい。ドライビングレンジに通い。いろいろな人のアドバイスも受けた。アドバイスどおりにやることは何も難しくない。また、現在を注意されるが、それらのアドバスは前に試したことばかり、それで、だめだから、現在になっているのに。

 結局、腕力が足りないと自分では納得しているのだが、他人は納得しない。変だ変だと考え込んでしまうばかりである。もう、この点も、あきらめている。
 まっすぐ前に一歩一歩前進するように心がけるしかない。それにしても、飛ばないのは悔しい。
 グヌン グリスの旧コースはショートホールは今6箇所ある。全てをドライバーでティショットしたが、全てまっすぐ飛んで、グリーンに届かなかった。ジャバベカは17番だけ転がって届く。カラワンのショートは丁度、ドライバーで届く距離である。
 本当に情けなくなる。
 

 花粉症。
 

 実は、私は物心付くころから花粉症だったのです。勿論、花粉症という言葉はありませんでした。毎年、寒い時期が終わる頃、春になる前二月から三月にかけて、必ず風邪をひいていました。(そのときの表現です)どんなに用心をしても必ずでした。最終テスト(期末試験)終了式、卒業式の時期、鼻紙を一杯ポケットに入れて、くしゃみをしながら鼻をかんでいました。あまりにうるさいので、テストの時は時間一杯、教室にいないで、半分くらいの時間で外に出ていましたし、何かの式の時も途中で追い出されていました。小またのが小学校の5年の時、上級生の卒業式で送辞を読むことになり、その時はまたひどかった。式が始まってすぐ式場から出て、送辞を読む時だけ戻って、終わったらすぐ外に出た。

 大学を卒業し、就職した時も新入社員講習会の時、大変だった。二十人ほどの入社した中で大卒は私だけ、他は全員高卒者。私は特別席のような一番前に座らされていたが、是が、クシャンクシャンやっているのだから、格好が付かない。惨めなものでした。

 どんな治療をしても治らないのに、それが、4月に入ると、ケロッと風邪が治ってしまう。30歳の頃、巷に花粉症という名前が現れだした。私は子供の頃からの筋金入りの花粉症だったのです。皆さんは遅れている、そのころ、原始人はかからない文明人がかかる病気だなどといっている人がいて、私など、ひそかに子供の頃から文明人だと思ったりした。50年以上も花粉症と付き合っていたのですから。昔は、ねずみ色のちり紙、途中は白いちり紙、トイレットペーパー、ティッシュペーパー、最期はウエットティッシュでした。

 現在はこのスギ花粉の時期に日本にいることは無いので、自然に治ったかどうか、確認することはできないし、確認したくも無い。

Minta Maaf

パプア ジャヤプラのパンタイ ダマイに