29ー02−2008    寂しい 

 私にとって貴重な先輩を亡くした。一昨日、訃報を日本の元私の会社から受け取った。静岡県吉田町の南部化成()の田中牧さん65歳である。もう、日本へ帰っても合うことができない。死因は聞かない。

殆どインドネシアにいるので、今は年に一回か二回しかあっていなかったが、インドネシアで仕事をする前は、田中さんが会社の事情で、出社することができなくなり、私のところへ逃げてきたというか、朝、家を出て行くところが無いので、太田化工の第二工場にいた私の所へ出勤してきて、一日中、私の前の空いてた机で書き物をしていた。半年近く続いたでしょうか。

田中さんは、南部工業という沼津にあった会社に勤めていた。しかし、倒産してしまい、現会長の佐々木さんらと何人かで吉田工場だった現地に南部化成を作った。大番頭として、大車輪の活躍、会社が成長するにしたがって、英語が堪能なこともあり、上海やフィリッピンの工場をリーダーになって立ち上げた。その活躍は一静岡の小さな会社の社長としては、傍目で見ていてまぶしかった。

しかし、会社が大きくなりすぎて、本社に戻ったとき、経営という点では、やはり技術者であった。それを一番知っているのは彼自身だった。社長の大番頭として大きな会社のナンバーツーには向かなかった。やさしさだけでは無理だった。悩んで、私の所へきたのでした。すでに社長をやめていた私は喜んで迎えた。同じ、一技術者として、十分、気持ちを理解できたからです。

酒が好きで、タバコはすわなかった。私とは全く逆で、食事を共にするときは奇妙な光景だったと思う。しかし、よく、一緒に食事をし、将来を語り合った。同じプラスチックの押出の技術者としても、人の使い方にしても、考えるレベルが同じだった。それが、心地よかった。新潟大学の機械工学科卒である。

インドネシアで貴重な人の訃報を受け取るのはつらい、悲しみを分かち合う人がいないからだ。このことで、誰にも話ができないからだ。インドネシアは今朝も大雨。

ご冥福を遠くから祈ります。

           ○ 無から無へ 3
  
 
私の生き方によい方向で大きな影響を与えてくれた四人の人達を亡くした。どんな手段でも再会できない人となり、悲しみは大きかった。もう、私にとって、こういう人はいなくなってしまった。

先輩          
○ 塩崎さん

大学を卒業し入社した東洋プラスチック精工(株)に先輩としていた塩崎さん。押出部門の係長をしていた。また、できたばかりの労働組合の初代組合長をしていた。習志野の空挺部隊出身の猛者で、体力抜群、頭の回転と勘のよさ、決断力に速さと、責任感は7歳年下の私からはまぶしく映っていた。最初に会ったのは、新入社員教育の講習で組合に関する説明の時の講師をしてだった。高卒新入社員は15人ほど居たが、大卒は私だけだったので、塩崎さんはそのとき、私を大変気にしていたように思えた。話しが上手で屈託が無く、他人を引き込んでしまう魅力が大きかった。それは、私が到底まねをできないもので、一時は大変うらやましく思った。
 私が押出を希望した理由は不良が多くて活躍できる場所と見たからというのは、既に書いたが、塩崎さんの元で仕事をしたかった事も理由の一つだった。
 私は順調に仕事を覚え、組合も私が引き継ぐ事になり、塩崎さんは自分が居なくてもやっていけるようになった思ったのでしょう。塩崎さんは予ねて目論んでいた、会社を辞めて自分で会社を興すことを決心し、裾野市の実家の近くに富士プラスチック精工(株)を創設して社長になった。独立心が強く、人に指図される事を好まない性格から、入れかわり立ち代りする上司の下で、仕事をする事には耐えがたかったと思う。その近い将来の私の心境とほとんど相通ずるところがあったので、心境は充分理解していた。
 その四年後、私も同じ道をたどる事になるが、私の性格上これは、この先輩の影響ではないと、思っている。ただ、私の場合は資金がゼロだったので、その資金稼ぎの為、先輩の会社、富士プラ精工で20:00から08:00の12時間夜勤を一年半勤めさせてもらった。そして、自分の会社を作った。
 塩崎さんは、私が見るに技術者としては一流中の一流と思うが、経営者としては慎重さに欠けたし、名誉欲というか出世欲というか社会的地位欲が強かった。また、先祖伝来の富士山麓の荒地が別荘地、リゾート地としての需要で飛躍的に地価が只に近い状態から何万倍にも上がって、担保能力が飛躍的に上がってしまった。思いがけなく資産家になってしまったのだ。そこらへんから、強烈な反面教師になってしまった。性格上、資産上理由で、会社は大きくしない(急に大きくできない)というのが私の基本的姿勢にせざるを得なかったし、ソレを貫いた。彼は資金的に一失敗すれば、二の仕事をした、ソレが失敗すれば四の仕事をした。
 会社の規模は急成長し、裾野の青年会議所会長から工業団地の設立委員長になり、最終は商工会議所会頭になっていた。工業団地の一等地に工場を進出させた。誰が見ても成功者の見本のようにまぶしく見えていたに違いない。しかし、私は内情が伴っていない事を知っていた、貴重な人材を失い、ブレーキをかける人が居ないばかりか、兄弟連中を切り離す事ができなかったので、従業員の資質も追いついていけなかった。もはや私とは住む世界が全く違うようになってしまったので、音信もたえてしまった、噂を聞くだけになってしまった。
 私は、肩の荷を降ろし、希望通りインドネシアへ出かけた。その頃、日本のバブルは完全に崩壊をしてしまった。
 間もなくインドネシアへ妻から、訃報が入った。塩崎さんが自殺したと。生命保険に二億円が下りたという、負債総額30億円以上で富士プラ精工は倒産してしまった、という。62歳で一生に終止符を打ってしまった。只ひたすら、自分の世界で突っ走り、投了をしてしまった。大変悲しかった。電話を受けながら、泣いた。インドネシア人スタッフは皆、心配してくれた。
 良くも悪くも私の教師だった。生きていれば馬鹿を言いながら囲碁の好敵手で居られたものを、残念で仕方が無かった。帰国した折、墓参りに行ったが、埋葬されて、一ヵ月後くらいだったが、既に荒れて殺風景で、非常に寂しい状態だった。
 
 

同級生         ○ 小山君

 大学の卓球部に入った時、新入部員の一人として、清水東高の卓球部だった小山君がいた。同じ応用化学で出身も同じ静岡と言う事で、直ぐに親しくなり、何をするにも一緒だった事が多かった。親元から離れ、自由な身になっていたので、卓球以外にも囲碁、将棋、スキー、スケートを一緒にやり、お互いの下宿で麻雀で徹夜も好くした。通う学生食堂も同じだった。汚れた白衣で大学内を肩で風を切って闊歩していた。成績はクラスのブービー争いをしていた。彼は酒が好きだ、私は全然だめだったが、それ以外では気が合った。記憶力には感心させられる事が多かった。一目も二目も置いていた。学生生活を満喫した裁量の相棒だった。
 お互いになんとか卒業に就職し、別々の世界に分かれた。しかし、彼は、三年で会社を辞めてしまった。性格的に大企業の歯車にはなれないと思っていたので、やっぱりと思った。
 私はまだサラリーマンをしていた、既に結婚はしていた、しかし、彼はまだ独身、そして、失業中、暇でしょうがないから私が住んでいた社宅に一日置きぐらいに夕方遊びに来ていた。
 なかなか、再就職先が見付からずにいたので、何とかしてやらなければと思っていたところへ、フジプラ精工の塩崎さんから、内へどうかと言う話があった。「小山、裾野の山の中だけど、大丈夫か」と聞いたら、彼も背水の陣だったのでしょう。「お前を裏切る事はないよ」と返事があった。そして、フジプラ精工の大番頭にいきなり抜擢された。
 間もなく、私は東洋プラスチック精工を辞め、フジプラ精工の夜勤で世話になる事になり、しばらくの間、一所の会社になったが、私の疲れや子育ての手伝いがあってあまり話す事はなかった。
 また、私は間もなく、沼津の貸工場で自立開業をした。また、彼は結婚して裾野の南に住んだ、私の家は長泉町の北だったので、距離は車で10分ほどだった。たびたび、訪問しあって、お互いの情報の交換をしていた。塩崎さんの担保力と話術で規模が膨らんだフジプラ精工の常務に抜擢され、広がった取引先とのやり取りで、矢面に立ち、弟連中の製造現場との板ばさみで、心労が大きくなってきている事を感じた。
 私は私で精神的にのんびりと仕事をし、なんとなく仕事量が増え、静岡の貸し工場に本社を移し、沼津は工場だけにした。また、離れてしまったが、時々は情報交換をしていた。私は住所も静岡に引っ越した。
 私がが住んでいた長泉の家は小山君に譲った。しかし、彼は住む事はなかった。私が48歳で胃癌により胃の摘出手術をし、生き延びたと前後して、大腸癌により、人工肛門にする手術をした。
 その半年後、小山君はALS(筋萎縮性側索硬化症)に犯されてしまった。「太田、右手が動かなくなっちゃたよ」が最初の言葉だった。なんということだ。
 専門といわれていた、静岡の国立病院へ入院して来た。また、直ぐそばに居るようになった。難病中の難病という事は知っていた、進行が遅いか早いかだけだという事も知っていた。小山君も勿論知っていた。もう、社会復帰できない事も知っていた。平日毎日仕事が終わってから見舞いというか世間話をしにいっていた。進行は早いと思った。一ヵ月後後には首を左手で支えなければ上がらなくなっていた。三ヶ月後には両腕と首の力が無くなった。半年で、両足の自由も利かなくなった。
十ヶ月で自分で呼吸ができなくなり人工呼吸器を取り付けた。タンきりがつらそうだった。もう、寝たきりになった。
 一年近く静岡に居て、どうしようもないので自宅に帰っていった。ヘルパーと奥さんと交代で、二時間に一回ほどでしょうか、定期的タンきりをするようにしなければならない。
 それから半年後に、口を動かせなくなりしゃべる事ができなくなるし、食事もできなくなった。流動食だけになった。会話は目玉の動きで、聞いた事にイエス、ノーを表現した。
 とにかく全ての筋肉が動かなくなり、最期は瞬きができなくなり、目玉も動かせなくなり、最後の最後はまぶたの上の筋肉をぴくぴくさせる事だった。発病から二年半、心臓も止まってしまった。50才だった。
 弔辞は涙が止まらなかった。
 その後、私が住んでいた家に遺族(奥さんと女の子三人)は引っ越した。フジプラ精工とも無縁になった。資金的にしばらくお手伝いをさせてもらった。
 そして、私はインドネシアへ行ってしまった。

 

インドネシアに関する何でも質問、エンプラ押出に関する何でも質問はE-mailkota02@y6.dion.ne.jpまでどうぞ。   静岡市  太田勝夫

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スルガ(駿河)はインドネシア語で天国

22 09  2007

Special Report From Garmany

後輩                          2003年7月8日

 2000年8月にインドネシアで初対面だった。第一印象は頼りなく、大丈夫かと心配したが、一度仕切りなおしをしたら、見違えるような積極性を発揮した。普通,五年くらいかかる押出の仕事をほぼ二年で覚え、自分から手を出すようになっていた。前に一人後ろに三人日本人の若者が来ていたが、いずれも、性格的、積極性で不合格だった。彼一人が太鼓判の合格だった。その時、いた他の日本人(45才のマネージャー)よりも能力は高かった。私は、三年で、契約切れだったが、安心して日本に帰ることができるという心境だった。

               ○ 山崎君のこと

私の送別会をかねて、押出のメンバー30人ほどと、バンドン近くのタンクバンプラフという火山へハイキングに行きました。6日9時、バスで会社出発、私は遅刻したので、ひとり車で追いかけ、先に着いて待っていた。皆さんが到着したのが、14時、早速、火山の、お鉢回りに出発、途中遅れてしまった大部分のメンバーは引き返したが、山崎君と私を含めて8人が一周をした。16:30 終わって、山崎君、胸が苦しいと言っているので、これはまずいと思い、皆さんがまだ集合していないのをそのままにし、Y君を助手席に寝かせスバンの町の病院(Rumah sakit PERKEBUNAN NUSANTARA,プルクブナン ヌサンタラ病院)へ連れて行った。17時を回っていた。一時間以上休み、その間、心電図をとった。医者は、今晩ここに入院しなさいといっていたが、山崎君は、どうしてもジャカルタへ帰るといって聞かない。医者は、説明したことへのサインを本人に求めた。ティダアパアパと言いながら、漢字でサインした。

18:30、再びベッドからの距離20mほどを、なんでもないように、歩いて玄関前に待機した車の助手席に座った。その瞬間、痙攣とともに、意識不明になった。運転席にいた私は何事が起きたのかすぐにはわからなかった。

また直ぐに、ベッドへ戻し、心臓蘇生のための処置を施したが、19:00過ぎだと思う。医者から死亡確認を知らされた。26才だった。

20時過ぎ、スバンの病院を救急車とともに搬送先が決まらないまま出発、チカンペックの手前でジャカルタのガトットゥスブロト病院にと知らされた。安置したのは22時前後だと思う。

返す返すも残念、私がついていながら、こんな事態になってしまい、大変申し訳なく思います。

助かったかどうかは、わかりませんが、あの時ああしていればよかったと思う事が何回か思い当たります。すべてについて、悪い方向を選択してしまったように思います。私はそのどれも変えることができなかった。

    ○ 山崎君の言葉

 火口一周後 「ちょっと苦しいから、ここでちょっと休むよ」

 つらそうなので、私の車の中で休むように言ったとき 「大丈夫、ちょっとここで休めば直ります」

 全員分の夕食の費用をトミーパーに渡すために車に向かったとき、「車の中のほうがあったかいかな」

 皆さんをトミーパー、ワルドヨに任せ出発するとき「サンパイベソックヤ」(また明日)

 スバンへ向かう途中 「ここの名前は何でしたっけ」「名前を覚えにくいですよね」「発音しないGが入るんですよね」

 「太田さんは、元気ですね、ゴルフで走り回るのはなんともないけど、今日はちょっとね」

 「ちょっと止めてください、吐き気がしてきた」「水は持っているからいいです」「ティッシュ、持っています」

体を横向きにしたり、お腹を抱えるように前かがみになったりしながら 「この方が楽みたい」

「茶畑きれいですね」「ゴムですね」

スバンまで数分の地点で 「ジャカルタまで大丈夫ですよ」

ジャカルタ方向に曲がらず、スバンのコタ方面に直進したとき、「もう、今、大分楽になりました」

途中、ニ回、車を止め病院の位置をベチャの人に聞いたとき、「あそこを右ですよ」「そこを左に曲がったとこかな」と、私に指示をしていた。

病院について、「大丈夫です、歩けます」さっさと直ぐ突き当たりのベッドに横になる。

私が玄関口で彼の診察券を作るために事務の人と会話中、酸素ボンベがベッドの脇に運ばれていたが、どんな処置をしたのか、わからない。

救急医に駆け込んだことを、O社長に一報を入れる。

しばらくして、ドクターに呼ばれ、入院しなければならないと言われ、本人にそのことを告げた。直ぐに起き上がり、ベッドから降り、ドクターに向かって「ティダマウ、ムンギナップ、マウク、ジャカルタ、スダー、オーケー」を、繰り返す。「スダー、ルビーバイク、ダリパダ、タディ」「マウ、プラン、ク、ジャカルタ」(入院したくない、前より楽になっている、ジャカルタへ帰りたい)

ドクターは、説明したことを繰り返し、その書類にサインを求めた。Y君、「ティダ、アパアパヤ」(問題ない)と言いながら、間髪をいれず漢字でサインをした。

ドクターから、直ぐ近くの薬局で買って、飲むように言われた。看護婦が薬局の場所を教えた。心電図と薬の処方箋を受け取りながら、「ブリ、ディ、ジャカルタ、サジャヤ」(ジャカルタで買えばいい)

車の助手席へ向かいながら、「すいません、お願いします。」これが最後でした。

 この間約2時間ほど、話ができなくなったのは最後の最後、ほんの一瞬だけでした。意識は普通だったし、歩くこともできた。会話は何故かジャカルタへ帰りたいという意識で一貫していた。死ということについて何も思っていなかったはずです。死ぬことへの恐怖心はまったくなかったはずです。ですから、死ぬことや、死んだ後のことについては一言も話す必要はなかった。

Y君へ、やすらかにお眠りください。