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フローレスの子供たち

         ○ 無から無へ 2
  
人生観

離れてしまい、あうことはない、これも一種の無であり、死と同じ意味を持つ。それを最初意識したのは、「人生是離別」という言葉、確か、宮本武蔵の言だったと思う。これを聞いたときに、確かにその通りだと思った。どこからも、誰からも、別れ、はなれ、新しい世界、新しい環境が私の前にあった。過ぎ去った場所、人とはほとんど二度と会うことはない。いわば、死の世界である。再び合う人は多分1%にも満たないだろう。大学の四年間がいい例だ、大変多くの人に出会って、多くの人にお世話になった。恩人といえる人もいた。しかし、今、会ったり電話したりということは本当にまれ、それっきりがほとんどだ。その時の人達のほとんどは私から見れば死んでしまったと、変わらない。多分それらの人達にとっても私は、死んでいる状態と同じで、思い出すこともないというより、完全に忘れてしまっているでしょう。

出会いがあれば、必ず別れがある、別れは死と同義語である。

神は一つ? 

神を作り出したのは人間であり、信じる信じないも人間である。人間がいなかったときに神という概念は存在しないし、必要とした者も無かったはず。また、人間が何時ごろから地球上に発生したか知りませんが、現在有名な宗教はほんの1000〜3000年前からのこと、その前はどうだったの?恐竜時代にはどうだったのか、彼らは他の動物から襲われたとき神様に祈ったのか?

神を信じる人に、神はどんな大きさで、どんな物質から、どんな元素から出来ているの、神を誰が創ったの、どんな形をしているの?聞いても答えられる人はいない。神が人間を創るときどんな手順で、どこか他材料を持ってきて、どんな道具を使ったのか?

そんなわけのわからない神が人間を創ったという人が多い。とんでもない話で、人間は細胞の集まりであり、水分と有機物で大部分が出来上がっている、その元は元素、原子、電子、陽子である。その配列結合の仕方が違っていてこういう姿になっている。それに伴い頭脳が発達し、考えたり、欲望を満たしたりの本能も人間独特なものに進化?した。

不思議なこと、自分の能力では説明できないことで、神の存在なくして説明がつかないという、そういう人が多い。アインシュタインも最後には神の仕業と説明するしかないといったという。人間の歴史は、宇宙の歴史に比べれば、瞬きするほどでしかないということはわかっているらしい。人間の一生はそのまた瞬きするだけの瞬間である。そのときだけ、色々考えても仕方がないことで、その人間が作った神を信じる信じないで、殺し合いまでするとはまったく意味がないことだ。そういう人達に限って、神が自分を創ったという。それなら、神は大間違いの究極を作ったことになる。そんなことだけ考えても、人間が説明できないことは無限大にある。それが人間だ。

 宇宙を創造した神は一つのはずだが、その神を作ったのはなに?それは人間以外にない。

 客観的に見て、世界中には無数の神が存在する。それだけでも、人間が作ったという証拠になる。破壊や殺戮や嫉妬などでせっかくの短い一生を台無しにしてしまいやすく作った愚作である。これも、人間が作った神だから、問題が多い愚作しか出来ないのだ。

人間は考える葦である。 

大学の頃は、すでに、神も仏も存在を否定した。頭で存在は考えられないし、見たことがない神の概念など入る余地はまったくなかった。先祖を敬うとか、自分の生い立ちについては、遺伝的に興味はあったが、完全に統計学の世界だった。身内が亡くなったときは悲しい。身近な人にもう会えなくなれば誰だって悲しいし、お世話になった人がいなくなれば悲しい。自然な感情である。素直に表現したらいい。そこに、宗教という概念は入ってこない。私の身内では、誰かが亡くなった時、お寺でお経を読み、お墓に納骨をする。一区切りをつける一種のセレモニーである。方法はどうでもいい、なんとなく納得すれば良いだけのことである。本当は、何もしなくて良い。他人から、苦情がなければ空気中にあるいは地面に放置してもいい、ばら撒いてもいい。

 「我、思うゆえに、我あり」まったくその通り。「我、思わざれば、我無し」「無から出て無に帰す」すべては無にもどるだけ、物心がつく以前になるだけ、そのことについて考えても仕方がない。思うことが出来る間は思うように生きたいと考えが決まった。それ以後、この考えに変化はない。悩みもなければ、迷いもない、もし、思うようにいかないことがあっても自分自身で何とか思うようにした。

死んだのち、人間はどうなるか。天国へ行く、地獄へ行く、あの世とはどこにある。人間は死後が不安で宗教を信じてしまう一面がある。宗教は何かの不安から開放される手段であり。不安があるから宗教がある。何も不安がなければ、また、自分で解決できれば、宗教などいらない。
 話は単純明快である。無から無へ戻るだけである。人間で無くなる、無から一瞬有になり、考え、また、考えなくなる、無になるのです。そういう考え方に宗教は生まれない。また、そういう考えが宗教といえば宗教である。

人間になった。 

私は、小学校の4年の頃、宗教のシュの字も知らないときに、僕はどこから来たのか考えた事がある。親に聞いたら、なにを考えたのか、「そんなことは今知らなくてもいい」と、答えてくれなかった。でも、考えている自分が今あって、考えていない、何も覚えていないときが、以前にあった。思い出せる最初の出来事は、2歳半くらいのときの、配給の行列に自分がズック製の手提げを持って並び、ピーナッツの缶詰とどういう分けた冷凍のイカをもらったことだった。それ以降についての記憶は次々と出てくる。

記憶が始まって、そこから人間になったと思った。それ以前は何もなかった。無であった。

胃がんのため、胃の切除の手術を受けた。気持ちは眠る前と同じで、何の不安もなかった。手術台に寝て、麻酔用のマスクを付け、一回半の呼吸で死の世界に入ってしまった。意識が戻ったときにはICUに寝かされていた。その間、五体を切り刻まれて、本当に死んでしまっても、無の世界である。痛くも痒くもない、生まれてくる前と同じだからである。また、眠っている時、何も考えていないし、記憶がない。このときも、無である。生まれる前と同じである。人間ではない状態である。そのまま目を覚まさなければ、本物の死である。いまもそのままである。インドネシアにいない。何処にもいない。無になっているだけである。

痛いという意識が戻って生まれ変わった。再び人間になった。しかし、再び人間になったとき自分は付いていると思った。再び、考え記憶することができるからである。

 

しかし、眠る前に人間は「再び目覚めないのではないか」という心配はしない。死ぬ前も眠る前も状況はまったく同じ、永眠とは言いえて妙。無の世界、記憶以前の世界に戻るだけ、その時誰もが永眠するだけである。そういう考えに自分はなっていた。多分、中学生になる前だったと思う。そうなれば、ありもしない神に祈って、「天国へいけますように」などということは、単なるシャレに過ぎない。

 その後は、お化けだの魂だの火の玉など全く信じなくなってしまった。もし、魂があるなら、それはどういう物質で構成されているのか、人間だけなのか哺乳類だけなのか、それとも、バクテリアやビールスに至る生物全部にあるのか、死んだ人間だけでも魂が地球上のそこら辺に全部残っていたら、大きさに依るでしょうが、何百臆以上がひしめき合っていて、それがどんどん増えているはず、居場所がなくなる。宇宙に散らばるとしたら、絶対零度に近く、限りなく真空に耐えられるのだろうか、そんな矛盾を指摘するまでもなく、ばかばかしくて考えたくもない。何も無いといったほうが、説明がつく。見たことがあるという人はどういう確認の仕方をしたのでしょうか、光学的錯覚をしたのか、精神的に何か問題がある人だと思うようになった。

逃げ道

そんなことがあり、宗教というものは精神的に弱い人が何かに頼るためにのめりこむ逃げ道であり、信じる信じないは自由である、それで、安心できればそれでいい。

しかし、100%個人的なことを、神が作ったという人間どもは、他人も同じ心境にしようと画策する、仲間を増やそうとする、地域を拡大しようとする。同じような人間がいないとまた不安になる。人間はとことん出来損ないに出来上がっているものだ。ある人間が、自分の宗教観を広めようとすれば、必ず、違った考えの宗教観と衝突をする。

 欲と欲、羨望と羨望、の衝突を利用し、権力欲を満たそうとする人間にとって、大変便利なものである。多くの人間は、まんまとそのプロパガンダに引っかかり、自己を失ってしまう。人間というものは本当にどうしようもない愚作である。

神を信じる人間は神の責任とはしない。自分が他人より恵まれないこと、能力や外見などで劣っていること、劣等感を神の責任としない。神を恨み、神を否定し、神を破壊すれば良いと思うのだが、他の神を信じている人を破壊しようとする。変な矛盾した話である。

外から見て、自分や自分の神が間違っているのに、逃げ道として、自分以外の人や自分以外の人が信じている神を否定する。人間とはかくも、みっともなくできている。

不可解

考えれば考えるほど理解できないこと、不可解なことは無限大である。宇宙の果てと同じことだ。また、自分が生まれて考えはじめ、理解し初めた時に比べれば現在でもすでに無限大に達しているが、それがまだ拡大中である。これも、宇宙と同じ。

何億光年先のまた何億光年先のことは理解できない、もし出来たとしても、その先のことは理解できない。ナノより小さい世界のことは理解できない、理解できたとしてもそれより小さい世界のことは説明できない。電子や光子の中になにがあるの、空っぽ?それとも、広大な宇宙があるの?

無限小、無限大を人間がわかるわけがない、わからないから、無限小、無限大という。ビッグバンから始まった宇宙は広がりつつあると、科学者がもっともらしく説明する。なるほどと納得する人はわかった振りをしているのだと思う。ビッグバン以前は何だったの?なにがビッグバンを起こさせたの?わからないことばかりである。科学者が追求し、わかったことは増えているが、わからないことはそれ以上に増えているはず。子供の頃聞いた落語で、題名は忘れたが、長屋のご隠居と与太郎の話、何でも知っているというご隠居が、お前はなにも知らないだろうと馬鹿にする。それならと、与太郎は「その向こうになにがある、そのまた向こうになにがある、そのまた向こうは、」と畳み掛ける、と聞かれ「最後に、戻ってくる」といってごまかした。しかし、結論は真実であるとも、間違いともいえる。当時はごまかしたことでも、徐々に真実はわかる。昔から考えるということは果てしがない、知っていることは有限、それが人間。

私が知るだけでもその程度なのに、多くの人にとっては金属のお金がガラス瓶を突き抜けて出てくることを神秘的に思ったり、超能力や神業と思ったりすることは仕方がない。オーム真理教の麻原が浮き上がっている写真を見て神から与えられた力だと思い、サイババが手の平から砂のようなものを出して、信者を膝ま付かせてご満悦な顔をしている。単なるトリックを見つけられないだけのことなのに、教祖に君臨させてしまっている。その程度だから、人間を宗教に引き込むくらいの洗脳はいとも簡単なはず。

卵や種から次世代が生まれる、あたかも無から有になり無になる。これぞ私にとっては神秘の世界。ただし、メカニズムをまだ知らないだけで、マジックと同じで必ず種はある。これも、神のなせる技と説明すれば神の存在を認めざるを得ない人は多い。宗教の説明によれば、進化論や突然変異論などは、どこかへ飛ばされてしまう。恐竜やアンモナイトなどの生物も人間を作る以前に神は作ったのでしょうか。恐竜は神について考えたのでしょうか。それらを滅ぼしたのも神の仕業なのでしょうか、神を考えると、それこそ、わけのわからない、神秘の世界になってしま
う。

サルやイルカのように、体積比で人間に近い脳を持った動物たちは確実に感情が見た目や声で認められるし、表現の仕方も多彩だ。しかし、彼らが宗教的な考えに取り付かれて、集団で破壊的な行動をとることはないでしょう。神が作ったものの中で人間だけが、わけもわからない行動をする。

結論的にいえば、この世に神も仏もない。物質があるだけ、その物質が瞬間的に動物や植物といわれるものに変化し、それぞれが考えるに過ぎない。限りなく100%は何もない無の世界である。無から出でて無に帰る。

 私のような考え方をする人を唯物論者というのでしょうか。ただし、運命ではなく、運とかツキはあると思う。この世に現れたことだけとっても運なのでしょう。

 

スルガ(駿河)はインドネシア語で天国

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20 07  2007

Special Report From Garmany

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